Better Days

 最近のオフロードバイクの周辺を見ていて、今まで自分がやってきたこととは大きな隔たりを感じることが多くなりました。

 これまでは走行中の写真や自分が写っている写真はできるだけ載せないようにしてきましたが、十数年経った今では別の意義もあるのかと思い一部をご紹介します。1980年代後半の、まださほどピリピリしていない頃の写真をご覧ください。


1988

photo:1988 オフロードエリアに足を踏み入れることそのものの楽しみだけでは飽き足らなくなり、速さを求め始めた頃。XLX250Rを潰してしまいKMXに乗り換えて数ヶ月。友人fくんは発売されたばかりのXL250R BAJAを購入。

 この時はたしか購入翌日だった。オフロードを走るときはボロボロの中古車じゃないともったいない・・・などと言われていた頃。

photo:1988 数日後に別の友人Kくんと再び富士山へ。

 ブーツ代わりの安全靴、登山で使っていたスパッツ、エンデューロジャケット代わりの雨ガッパ、釣り用品店で安売りしていたウェストバッグ、フェイスガードには冬のツーリングの時に寒さ避けに貼ったガムテープがそのまま残っている。

 これでもまだちゃんとしている方だった。

photo:1988 しばらくしてついにブーツ購入。ガエルネのルーキー。この頃は白いブーツがお洒落な時代だった。

 ウェアはまだ買えなくてGパンとトレーナー。この頃はMXウェアはまだシニサロとかAXOをたまに見かける位、富士山ではラフ&ロードや風魔などショップブランドのウェアの方が多かった。「ウェアを見るとどこに住んでいる奴か分かる」なんて話しを聞いたことがある。横浜周辺だとラフ&ロード、都内の人は風魔が多かった。

 そういえばショップブランドのモトパンやMXジャージなんてのも、今はもう無さそうだな。


1989

photo:1989 ITDE(HTDE)に出ようと盛り上がり、泥沼を求め始める。

 KTMへの憧れもこの頃にはすでに大きくなっていて、MXパンツはApico(1988年のISDE完走記念セールで購入したもの)。エンデューロジャケットはGWスポーツ。一台のオートバイを春・夏のツーリング、たまに通学、あとはこのようなアタックツーリング(?)と何役も酷使していた。

photo:1989 今だったらもう少しスマートに抜けるか、ここまでひどくならないうちに逃げているだろうが・・・この頃は本気で正面から突っ込み、埋まっていた。

 赤いエンデューロジャケットを着ているのはF山くん。高校の同級生で写真部仲間。今ではツーリングの世界に戻り、そちらで有名人となっている模様。

photo:1989 日高 そして日高へ。二年前にITDEに参加したマルコム・スミスのインタビューに刺激されて、長距離フェリーではなく出来るだけ一般道を通って北海道まで行くことに。4万円で買った軽トラックで北海道を目指す。

photo:1989 日高 車検当日の日高。ピットでテントを張るチームは大手の数チームだけで、あとはみな車1〜2台程度だった。この年は自走の人や、ピットエリアで登山用テントを張って寝る人もけっこういた。

 翌1990年はピットの雰囲気が一気に本格化・過激化した。

photo:1989 日高 同じ横浜ナンバー、同じ青い軽トラってことで知り合ったSくん(DT125)たち一行と。Sくんとは今でも交流がある。

photo:1989 日高から1ヶ月、来年に向けての練習が始まる。

photo:1989 北海道で世界レベルのコースを体感し、モトクロス世界チャンピオンとエンデューロアメリカチャンピオンの走りをこの目で見てしまった直後。練習は過激さを増していった。

photo:1989 股割なんかもやって体が柔らかかった頃。

photo:1989 日高で知り合ったSくん(当時北海道にバイク留学中)が横浜に戻ってきたので丹沢方面に走りに行く。遅いながらも写真写りの格好良さを求め始めた頃。

photo:1989 ヘッドライトはKL600R用にしてH4バルブ化。バルブはシビエのイエローバルブ。黒KMX用の赤いフォークブーツを装着。HARDYのフォークスプリングを入れてリアはノーマル最強プリロード・・・今となっては??なセッティング。エンデューロ仕様な元ツーリング車。

 変にいじり倒したミーハーマシンではなく、素性のいいオフロード車(リア18インチ)に乗る必要を感じ、DT125を買って2年ほど修行しようかと考えていた。


1990

photo:1990 そしてKTM250EGS。FくんとSくんと3人で一緒に買いに行った。雪山で雪上に寝っ転がっても冷たくならないと感動し、無理して買ったMSのゴアテックスの上下。ヘルメットもフルフェイスに。収入の大半をオフロードライディングの為に使っていた。

 このときSくんはKMX(オレのサブマシン)で参加(1988-250EGSは北海道でお留守番)。KL600Rガラスは飛び石で粉砕、イエローバルブは白色ノーマルバルブに変身してしまった。

 この頃は内田正洋さんの影響を受けている。Do! スポーツ(テレビ番組)でBAJAのプレランとかレースとかをバリバリやっていた頃だった。

photo:1990 5合目で記念撮影。

photo:1990 1990年の日高。前夜祭の雰囲気は前年のマニアックなものからキャンプ場を使った明るい雰囲気のものに変わった。神保さんが挨拶に立ち「おばんでございます」というだけで男達の大歓声が沸き上がり、競技説明で「リタイヤしたライダーは・・・おそらくほとんどの人がリタイアすると思いますが」で大爆笑。実際に完走者は6人のみ。200人以上がリタイアした。


1991

photo:1991 日高 1991年の日高。パレードの為に整列しているところ。この頃の主流マシンは逆輸入XRやRMX。MXマシンの逆輸入登録車もこの頃から登場。

 押しに照準を合わせてジェットヘルメットのライダーも多かった。「日高ではブレストガードは付けない」なんて話しも地元の速いライダーから聞いたことがある。

 前夜祭の会場はなぜか照明不足。急きょクルマのヘッドライトを点灯させるなどでしのいでいたのが印象的だった。神保さんが登場しても歓声もなく、逆にコースマークの読み方についての質問が出て、説明不足を指摘するような声も聞こえた。車検会場前ではタイヤメーカーの関係者と思われる数人が全車のタイヤ銘柄チェックを実施(車検とは別で、市場調査だったと思う)。いきなり他人のバイクのタイヤをつかんで「ゼッケン○○番、フロントは990」などと叫ばれる。それがレースの車検とはまったく関係ない行為であることに気付いたときは愉快な気持ちはしなかった。

 ・・・などなど、去年までの雰囲気とは違うことを認識させられるシーンがいくつかあった。

photo:1991 日高 第一日、二周目。疲れを通り越してハイ状態になりヌタ場をかろうじて走破。ここまでは良かったが、直後に急なギャップがあって越えられずはまっているところ。このシーンは公式ビデオにも収録されてしまい、他のライダーはヌルヌルと越えていくのに自分だけ越えられずにはまっている情けないシーンとなった。しかもスタート〜第一CP間であるかのような編集(笑)。

 まだキャメルバックはエンデューロシーンに登場しておらず、腰に水筒の時代。普通は右腰に付けるが左キック車なので左腰に装着。

 この年は100kmを2周×2日間。レースそのものは渋滞もなく最高だった。

 レースの過酷さを完走率の低さで語る時代が終わり、この後オンタイム制へと進化していく・・・のだがいろいろ混乱があったのはご存知の通り。今から思えば車検前や前夜祭で感じた不安要素も無関係では無かったのだろう。残念ながら私の日高経験はここまで。

Written on 2004.07.20.-2005.02.27.

photo:1989 日高 Are you lefty?を見ていたら懐かしい話題があったので写真を探してみました。

Written on 2005.11.26.
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