大阪・名古屋への出張が多い。去年の今ごろは毎週行っていた。行き先は同じ会社の営業所なので、まだ少しは楽だと思う。しかし、だるい。子供の頃にあんなに大好きだった新幹線が、こんなに苦痛になるとは思わなかった。
新横浜から乗るせいなのだろうが、朝はまず指定席が取れない。自由席も一杯なので、最近は指定席の方のデッキで暫く待って、頃合いを見計らって空いている席を探す。せめて名古屋まででも座るようにしている。 帰りも悲惨だ。顔見せ出張で明るいうちに帰途につくような「恵まれた」立場ではないので、最終の新幹線に飛び乗ることが多い。売店にはすでに弁当もつまみも無く、あっても不味いことは判っている。ビールとミックスナッツで幸せを噛みしめる。
数本のビールを空け、ツマミも底をつき、本も読むのもパソコンをいじるのにも飽きたころ、新幹線はわが家のすぐ近くを通る。クルマでほんの数分、歩いても20分程度の所を駆け抜ける。見慣れた道路、信号、コンビニ・・・あっという間に飛んでいく。「ああ、ここに駅があったら・・・」新横浜からタクシーで帰ると約5,000円、しかしここからなら650円で帰れる・・・などと思っているうちに、新幹線は私に追い打ちをかけるがごとく、相模鉄道の西谷駅の上を突っ走っていくのだ・・・ああ、あのホームに降りれたら、30分もかからず、100円少々でわが家に着くのに。
新横浜から横浜線で横浜に出て、それから相鉄に乗り換えるのだが、東神奈川では袴線橋を渡って反対のホームに移らなくてはならない事が多く、相鉄はその時刻になると各駅停車が多くなってこれもシンドい。一頃は抵抗しようとしてタクシーを使ったり、途中(西谷駅ね)までタクシーで来てそこから相鉄に乗り換えたりと試してみたのだが、お金が掛かり過ぎたりそれほど楽にならなかったり大赤字になったりと、ほとんどいいことはなかった。だいたいタクシーというのは、なぜ、止まったとたんに1メーター上がるのだろうか。ひどいときなど、止まれと言った場所を通り過ぎ、あわてて止まったあとでドアを開けてからメーターを止めやがって、そのとたんに1メーター上がりやがった。
横浜西部に住む人にとって、東海道新幹線「善部駅(仮称)」または「西谷駅」の開業は心の底からの祈りなのだ・・・などと考えていたが、ある日ふと気づいた。
これでは、整備新幹線と全く同じではないか。
地元に道路や新幹線をつくるだけの誰かさんと同じではないか。
アルミ製のアルマイト食器とシェラ・カップ。野宿生活で飯を炊き、ラーメンを作り、コーヒーをいれる私の愛用品だった。夏と春の休みには、いつもアタック・ザックにガスコンロとこいつらを入れて、旅に出た。
ドタドタと結婚し、バタバタとアパートに入ったら、家財道具どころか日用品が何もなかった。そこで大活躍したのが、アルマイト食器とシェラ・カップだった。レトルトご飯とレトルトおかずは、私の野外生活の思い出がこもったアルマイト食器に盛られ、シェラ・カップに入れたインスタントコーヒーでわずかにくつろぎを得た。だんだん食器が揃ってくると、アルマイト食器は風呂場に置かれ、手桶の代わりとして数日間使われた。
シェラ・カップは食器としてではなく、調理用として重宝した。卵をとくのにちょうど良い。子供の離乳が始まると、重湯やお粥をつくるのに大活躍した。
今では、アルマイト食器は風呂場でおもちゃ入れとなり、シェラ・カップの大きい方はやはり風呂場で子供用の手桶となり、小さい方はベランダで砂遊びの道具となっている。一見、寂しい光景だが、これでいいのだ。しまい込まれた方がもっと寂しい。もう少し子供たちの手になじんだ頃、本当の使い方を教えてあげようと思う。
とある土曜日の夜、会社から帰ると女房が床に突っ伏して腹痛を訴えていた 。
以前にも似たようなことがあった。近所の病院で夜間診療をしてもらい、い ったん良くなって家に戻ったのに、1時間ほどするとすぐに痛みが戻ってしまっ たのでもう一回病院に行き、結局一晩入院したのだった。
今回も救急車を呼ぶほどではないので、救急情報センターに電話し、近くで 開いてそうな病院を教えてもらう。前回の病院はその日は受け付けていないよう だった。家からクルマで5分程の病院にする。電話で予約(?)をとってから向か った。家には子ども(4歳と1歳)が寝たままだ。「この間みたいに何度も行き 来すると大変だから、病状を説明して点滴なり注射なりしてもらって、ちゃんと 直してから帰ろうな」というようなことを言ったのだが、帰ってくるまでに10 日もかかるとは、この時まったく予想していなかった。
病院に着き、それほど待たされずに診察が始まる。この病院は去年母が実家 で亡くなったとき、死亡診断をしてもらうために運ばれた病院だ(今の法律では 救急隊員さんは死亡診断ができないらしい。“死んでいることが明らかな”人で もわざわざ病院に運ばなくてはならない。または警察が介入せざるを得ないとの こと。だから、戸籍謄本上では、母はこの病院で死去したことになっている)。 待合室で待っている間にそんなことを思い出す。今回はただの腹痛と分かってい ても、あまり気分が良いものではない。 やがて診察室からとなりの点滴室に移 動し、しばらく点滴をうけることになった。大丈夫ですよ、様子を見ましょう・ ・・で家に帰されそうになったらしいのだが、前にも同じようなことがあってそ の時も点滴をしないと直らなかった、と訴えたのだそうだ。準備ができるまでに トイレに行こうとしたのだが、トイレの戸の前でうずくまり痛みに耐えている。 その姿を見て、看護婦さんも少し見方を変えてくれたようだ。痛みに耐えられず 体が動いてしまうので、点滴の針を動いても大丈夫なものに取り替えてくれた。
1、2時間かかるとのことなので、テレフォンカードと千円札を何枚か渡し て家に戻った。軽く飯を食い、電話を待つ。1時ちょっと前に電話がかかってき た。とると女房ではなく、看護婦さんだった。痛みがとれないので一晩入院して もらうことになりました、とのこと。夜中なので何も準備できず、とりあえずま た病院に向かう。看護婦さんから「入院案内」を渡される。個室しか開いておら ず、差額が1万5千円かかると言う。「1日ですか?!」と思わず聞いてしまっ た。 翌朝、なにもする気にならず・・・これはいつものことなのだが・・・、 子どもにご飯を食べさせてからボーッと過ごす。9時過ぎに電話が鳴る。「やっ と帰ってくるか・・・」と受話器をとると、またも看護婦さんだった。手術をす ることになった、10時から行う、とのこと。あわてて子どもを預ける準備をす る。こんな時に限ってオムツが見つからない。実家の親父に子どもを預け、病院 に向かう。親父は数日後に田舎に引っ越すことになっている。一週間ずれいてい たらどうなったのだろうか、とふと思う。病院に着いたのは10時10分前だっ た。病室にはもう姿が無く、会うことはできなかった。手術準備室で先生から説 明を聞く。盲腸の疑いがあるらしい。盲腸、ということで少し安心し、1、2時 間かかるということなのでヨーカドーにオムツを買いに行き、親父に渡してから 病院に戻る。40分ほど経っていたが、まだ「手術中」の電灯も点いているので 安心(?)して待合室に行き、ベンチに腰を下ろした。
・・・実はもうこのとき手術は終わっていて、その後10日間にわたる主夫 生活が始まったのであるが、これがもう筆舌に尽くし難いのでまたの機会にする 。とりあえず言えることは「いい経験をした」「日々の育児は仕事で徹夜するよ りもタイヘン」である。人生観変わった。人間に本当に大事なものは何か・・・ 。会社辞めるのも恐くない・・・ような気がする。
ちなみに、上の子どもが幼稚園に入ったばかりで、これがまた凄かった・・
・タイトルはここからつけました。でも、おかげで幼稚園でたくさん友達が出来
たし、担任の藤崎先生や園長先生とも顔見知りになったぞ。
仕事でパソコンが1台必要になり、秋葉原の某アウトレットショップに行った。今時、会社でパソコンを1台買うのに代理店から見積もりを取るなんてのはナンセンスだ。現金握って一つ二つ型落ちのビジネス機を二束三文で“拾って”くるのが一番手っ取り早い。それに安上がりだ。下手すりゃ1台分の予算で3台買える。
駅前の駐車場にクルマを突っ込み、ガード下の店に入る。仕事で使うのでいつものとおりIBMがいいだろう(使っているオフコンがIBMだから)と思い探していると、狙っていた予算(10万円以下!)でそこそこのヤツがあった。モニターとかネットワークカードなど、他の機器の構成とか予算でしばらく悩み、とりあえずここではそのパソコンと15インチのモニターを買っていくことにして、店員に声をかけた。
「これ一台ください。あと向こうにあるモニターも」
ここまではよかった。売り場の表示に「メモリー 16MB EDO」とあるのを見て、何気なしに
「メモリーはSIMMでいいんですよね」
と聞いたのだが、これが間違いだった・・・
「これはSIMMじゃなくてEDOです。」
「EDOのSIMMですか?DIMMですか?」
「いや、これはSIMMじゃなくてEDOなんです」
「え・・・72ピンの・・・」
「これはEDOなんです。そういう規格のメモリーなんです。ご承知ください。」
どうやらこの店員、FPMとEDOの違いをSIMMとDIMMと勘違いしているらしい。いや、「普通のメモリ」と「EDO」、あとはノートパソコン用とでも思っているのだろうか。面倒になったので放っておいて、金を払い梱包するのを見ていたのだが、やっぱり納得いかない。だんだん腹が立ってきた。
「さっきのメモリーだけど、SIMMなの?DIMMなの?」
「だからこれはSIMMじゃなくてEDOなんです。」
「EDOにもSIMMとDIMMがあるだろ?どっちなんだよ」
「だからこれはSIMMじゃなくてEDOなんです。」
いよいよ頭にきたので、私は店内にあるメモリーのショーケースを指差して言った。
「あそこを見てみたらEDOにはSIMMとDIMMと両方あるんだけど、どっちつければいいの?」
二人はメモリーのショーケースのところに移動した。
「ほら、EDOっつったってSIMMもDIMMも両方あるだろ?どっちなんだよ」
と、本当は知っているのに問い詰める私。実はおなじPCを以前似たような買い方で導入したことがある。店員はショーケースを見て、EDOと言ってもSIMMとDIMMがあることを初めて知ったようだ。
「うーんと、こっち・・・・・です・・・ね・・」
「ほー、72PINのSIMMでいいんだな」
「はい」
「さっきからそれを聞いてんだよ」
しかしこの店員は薄ら笑いを浮かべただけで何も答えず商品のところに戻り、
「カートはここにお返しください。ありがとうございました」
などと言う。とりあえず“勝ち”は収めたので「はいはい」と返事をして店を後にした。
駐車場までカートを押す間、後味の悪さと虚しさが充満する。アウトレットショップの店員に何も求めてはいけないのだろうか。この店はIBM系には類を見ないほど強く、信頼していたのだが・・・しかしメモリーの増設なんてパソコンには必要不可欠なことなのに、それを正しく説明できない店員がでかい顔をしているなんて(実は本当に顔がでかい奴だった)・・・こんなことでは「一人一台」とか「一家に一台」なんて、数字の上ではそうなっても現実は・・・
なお、この話は本当にノンフィクションです。SIMMとかDIMMとかEDOとかにはわざと解説をつけませんでした。こんな“暗号”を知っていないと買い物すらできない、と言うこと自体がそもそも間違いなのかも知れないね。
1997年11月29日から新しい新幹線「500系」が東京までやってくるようになる。新大阪〜博多間は以前から走っていたのだそうだが、このたびめでたく東京まで乗り入れることになったらしい。29日は幼稚園のイベントがあったり天気が悪かったりしたので、翌30日の昼に家からクルマで5分ほどの“新幹線スポット”に子供を連れて見に行ってみた。
通過推定時刻のほんの数分前に、とある橋に到着した。この橋は普段から散歩のついでに新幹線を見る子供連れが多い所なのだが、なんと“満員”。子供連れだけでなく、ビデオカメラを構えた大人(マニアか?)もいる。すぐとなりにかかっている橋も似たような状況。ひょっとして新大阪から東京までこんな感じなのだろうか・・・だとすると運転士さんはさぞ誇らしいことだろう・・・などとつまらないことを考えながら待つ。
やがて遠くのほうから光が見え、どんどん近づいてくる。「来た来た」子供だけでなく大人も歓声を上げる。もともと騒音が少ないように作っているらしいが、駅が近いため減速しているのでさらに静かだ(後で子供たちは「ヒューー・・・ヒューー・・・」と表現していた)。そして、カッコイイ。雑誌などで写真を見るたびに「まるで飛行機じゃん。やりすぎだよ」と思っていたが、本物、しかも走っている姿は本当にカッコイイ。あまりのカッコよさに、写真を撮りそこなったくらいだ。
「のぞみバイバ〜イ」ビデオを撮っている大人のすぐ近くでうちの子供が叫ぶ。「すごかったねえ!」と興奮していると、「僕んちには500系のぞみもマックスもあるもん」とプラレール自慢を始める子もいた。「どこも同じですねぇ」と親同士で苦笑する。やがて、満員だった橋は誰もいなくなってしまい、うちの子供だけがいつまでも「あ、ひかりだ・・・こだまも来た・・・次は300系のぞみだ」と動かない。数十分後、東京駅から引き返してきた500系のぞみを見送って、そのあと数本見てからやっと帰途についた。
今度は700系というのが登場するそうだが、なんともいえない独特の形をしている。500系の時のように橋が満員になるのだろうかなどと余計な心配をしてしまった・・・(関係ないけど新型MAXもすごい顔をしている・・・あれも心配)