佐田岬半島(愛媛県)は昭和40年代まで道路事情が悪く、船が重要な交通手段でした。バスも走ってはいましたが狭くて曲がりくねった道では車酔いが激しく、またすれ違い渋滞などで遅れることが多々あったため、船のほうが楽に移動できたのでした。バスや汽車よりも前から船での行き来があり、宇和島からの航路や佐賀関・別府まで行く航路などいろいろあったようです。昭和40年代以降は八幡浜運輸の八幡丸のみとなりました。
昭和40年代後半あたりからトンネルの開通やR197メロディーラインの開通で徐々にバスの方が優位になりました。長時間走る路線だったためか比較的新しい冷房車が走ることが多く、徐々に八幡丸の利用客は減っていったようです(そのバスも自家用車の普及や乗り合いタクシーの出現などで徐々に本数が減っていきます)。
古い写真をしまっていた箱が見つかり、当時の八幡丸の写真が少々ですが出てきました。自分で現像・焼付けして失敗した写真などもあり通常ではお見せできないレベルのものも混ざっていますが、ネットで検索しても八幡丸や高速船みさきの写真は見当たらず、資料としては多少は意味もあるのではないかと思い公開します。
なお、愛媛県生涯学習センターのサイトの中にこの八幡丸関連の話がいくつか載っています。あわせてご覧いただくと当時の光景が想像しやすくなると思います。
夏の朝七時の八幡浜行だと思われます。朝六時の船が「第十二 八幡丸」、七時の船が「第十五 八幡丸」のことが多かったような覚えがあります。三崎行きは昼12時に八幡浜を出る便と、夕方4時半に八幡浜を出る便がありました(他にもあったかも)。
(1978年頃)
同じく九町にて接岸する直前。この日は海が静かなのでロープの準備は船首と後方の二箇所だけだった模様。
荒れているときは中央部(いちばん前方のタイヤのあたり)でもロープを張りました。ウインチを使うのは船首だけで、中央と後方は十字架型の鉄棒にロープをたすきがけに巻きながら人力で寄せていました。
(1981〜1983年頃)
九町を離岸中。船首のロープは海に落とされ、ウインチで巻き上げられます。舵を左にとってターンが始まっています。
(1981〜1983年頃)
(1981〜1983年頃)
(1981〜1983年頃)
八幡浜港。八幡浜港と川之石港は浮き桟橋だったので乗り降りが楽でした。
(1980年頃)
寝過ごした人が「おーいおろしてくれー」といつまでも叫んでいる姿を見かけたことがあります。
(1980年頃)
(1980年頃)
1977年5月に高速船「みさき」が就航。トンネルの開通などで道路事情がよくなり、バスの利用者が増えていった頃でした。道路が良くなると八幡浜の病院や商店街を経由して八幡浜駅まで行くバスの方が断然有利になります。八幡浜港から駅までは20分以上かけて歩くか、市内バスまたはタクシーに乗らなければなりませんでした。この頃のバスは本数も一日7往復程度と多く、長距離路線のためか冷房車も配備され、かなり力が入っていました。
高速船みさきは八幡浜〜九町がそれまで約50分程度だったところを20分程度と、その名のとおりに速い船でした。輸送の主流がバスとトラックに移ったため、佐田岬への観光需要も見込んでいたと聞きます。しかし甲板に出ることは禁止(初期の頃は後ろに立っている人はいた)で、船室も低い位置にあるため外の景色は空と山の上のほうしか見えず、音もうるさくてあまり楽しい船ではありませんでした。三崎に着いても灯台までは車で40分かかり、バスは走っていないのでタクシーを使う必要があります。船旅気分が味わえるわけでもなく、中途半端な感じが残るものでした。冷房は付いていましたがパンカールーバーが結露して水滴が落ちるため、タオルが巻かれていたのを覚えています。
写真は加周に接岸する直前の高速船みさき。
(1981〜1983年頃)
(1981〜1983年頃)
みんな「高速船」と呼んでいました。「みさき」と呼ぶ人はほとんどいなかったように思います。
(1981〜1985年頃)
八幡丸が休止になった直後の写真。いつもの桟橋に、現役時とは逆に船首を沖に向けて係船されていました。高速船みさきだけの運航になり、船の優位性はどんどんなくなっていきました。
(1981〜1983年頃)
八幡浜〜三崎航路は1985年10月に休止になりました。高速船みさきはその後姿を見かけなかったからすぐに買い手がついたのでしょう。八幡丸は八幡浜港の桟橋に係船されたままでした。
(1987年12月)
この後、どこかで解体されたのでしょうか。それとも沈められて漁礁になっているのかな。
(1987年12月)
小波止ができる前は八幡丸は接岸できず、はしけで行き来していました。 私も乗ったことがあるらしいのですが、残念ながら記憶には残っていません。
(1966〜1968年頃)
現在の九町。左端に見えるのが八幡丸や高速船みさきがきていた小波止(こばと)で、そのすぐ上(沖)に見えるのが大波止(おおばと)。高速船みさきの休止後に大波止が補強・延長され、また八幡丸がターンしていたあたりには浜に沿って新たに防波堤が設置されました。
(2013年10月)
現在の加周。沖に防波堤が設置されています。通い船が復活することなど絶対にないということが分かります。
(2013年10月)
八幡丸時代の航路(えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業V−八幡浜市−を参考に地図を作成)。後年は川之石に寄ることは少なかったような覚えがあります(夏休みだったからかもしれません)。また便によっては通過するところもあったでしょうし、後年には廃止になったところもあると思います。
昭和30年代までは、川之石の人たちも八幡浜に行くのに船を使ったそうです。今では車で10分ちょっとで着いてしまうところです。当時の佐田岬半島の道路事情が想像できます。
今(2017年)では三崎行きのバスはメロディーライン(1987年完成)を通る便だけになってしまいました。このメロディーラインは半島の頂上部を通るバイパスで、観光や通過には便利ですが地元の集落からは徒歩で30分以上かかるところが多く(しかも上り坂)、途中の集落にとっては大変使いにくいバス路線となってしまっています。八幡浜〜伊方町役場まではそれなりに便数もありますが、伊方以西は朝に上り(加周→八幡浜)が一便、夜に下り(八幡浜→加周)が一便だけになってしまいました。伊方町が運行するデマンドバスというのもあるようですが、予約が必要でしかも町内だけの運行。役場とか歯医者に行く程度の使い方が大半でしょう。
伊方町内には原子力発電所もありますが、職員の通勤には専用のチャーターバスが使用されていますので地元の利便性にはまったく影響を与えていません。