0系(ぜろけい)・・・東海道・山陽新幹線の車両の形式の一つだ。最近は「500系のぞみ」が有名だけど、その前の前の前(要は一番最初の形)が0系。最近はこだま号とか臨時列車に使われているようだ。私が小さい頃、0系は夢の超特急だった。今では子供向けのビデオの中で、「0系は新幹線のおじいちゃん。今でも元気に走っているよ」なんて紹介されている。
私はさほど鉄道マニアと言うわけではない。子供の頃は鉄道が好きで、絵を描いたり形式を覚えたり鉄道模型に凝ったりはしたけれど、自転車やクルマ、そしてオートバイに乗るようになりだんだんと離れていった。子供が大きくなってきて、電車の絵本やビデオを一緒に見ていると「へー、最近はこんなのが走っているんだ」とびっくりし、同時に懐かしい「しんかんせん」がまだ頑張っていることを知った・・・そう、「つばさ」も「こまち」も「MAX」も「のぞみ」もカッコイイけど、やはり0系こそが「新幹線」なのだ。
その0系の数が激減しているらしい。近所の橋で一時間近く見ていても、まったく来ないこともある。新聞には東海道新幹線から引退間近という記事も載った。2年ほど前、大阪出張の帰りに乗った臨時のひかり号が0系だったときは「失敗したなあ。臨時なんかに乗らなきゃ良かった」と思ったものだが、こうなってくるともう一度乗ってみたい。そういえば子供たちも500系や300系、それに100系には乗ったことがあるけれど、0系にはまだ乗っていない。「0系に乗りたい?」と聞くと、「乗りたい! 乗りたい!!」ということで、土曜日に新横浜まで出かけていった。
新横浜駅に着いたのは昼過ぎだった。東京までの切符を買い、ホームに上がる。昔はこの駅には「こだま」しか停まらなかったが、今では「のぞみ」や「ひかり」も停車する。昔、家族で旅行したときは東京まで行ってから「ひかり」に乗ったり、名古屋で「こだま」に乗り換えて帰ってきたりしたなあ・・・などと思い出しながらベンチに座って0系を待つ。しかし、来ない。一時間近く待ってみたが、来るのは300系と100系ばかり。ホームの列車表示を見ると、もう一時間ほど後にくる「こだま」が、他の「こだま」とは指定席の号車が違うことに気づいた。きっとあれが0系に違いない・・・と思ったものの、ここまででもう子供たちはしびれを切らしてきているので、これ以上は無理だ。きっとその「こだま」は東京から折り返すに違いない。いったん東京まで出て、東北・上越新幹線や長野新幹線を見ながら時間をつぶし、その折り返すであろう「こだま」を狙う作戦に切りかえる。子供の説得にてこずるかと思ったが、運良くやってきた「グランドひかり」(2階建て車両が4両ついている100系の「ひかり」)に興味が移ったようで、あっさりとそれに乗った。
ほんの10分少々で東京に着いた。改札口で駅員さんに聞いてみる。
「あのー、0系の「こだま」って何時に出るか、わかりますか」
駅員さんは非常にびっくりしたようで、
「え? 0系?? 0系に乗るの??? ・・・ ホント?!」
と言いながら、物好きな奴やな・・・とでも言いたそうにニヤリと笑う。そしてワープロで打たれた時刻表の中から、0系の「こだま」を探し出してくれた。
「0系は少ないんだよな・・・お、これだこれだ。16時10分」
500系について聞く人は多いのだろうが、0系は何時発ですかと聞く親子は相当珍しかったのだろう。
出発の15分ほど前にホーム、に戻った。まだ0系は来ていない。隣のホームには500系がいて、親子連れや鉄道少年が集まり、かわるがわる写真を撮っている。しばらく待つと、0系がやってきた。「新幹線」としか表現のしようがない丸い顔。子供たちも「0系! 0系!!」と騒いでいる。
一番前の席に座った。出発の時刻になり、ドアが閉まる。しかし、ゴトン・ゴトンと音がするだけでなかなか発車しない。故障したか? などと思い待っていると、やがて動き始めた。
東京から新横浜の間はたいしたスピードも出さず、こだまだろうがのぞみだろうがたいした違いはない。0系もまだまだいけるじゃん・・・と思っていたら、運転席から「チン」という音が聞こえた。最初の頃は気にしなかったが何度か聞こえるうちにはっと気づいた。電子音ばかりの世の中で、技術の最先端だと思っていた新幹線から「チン」というベル(鐘?)の音が聞こえたのだ。おそらく何とか制御装置の警告音かなにかだと思うのだが、旧型国電かチンチン電車にでも乗っているかのような、不思議な気持ちに襲われた。と同時に、自分が子供だった頃の風景が頭の中によみがえる。
10分ちょっとで新横浜に着いた。姿が見えなくなるまで手を振る子供たち。その姿に、自分と弟の子供時代を重ねてみる。じきに、さらに新しい700系も登場する。いま「のぞみ」で使われている300系が「こだま」に回されるらしい。昔、新幹線に一緒に乗った弟と母は、もう思い出の中に旅立ってしまった。0系新幹線もやがて思い出の中へ走り去っていく。
引越をすることにした。今住んでいるところは小学校一年生の6月から結婚するまで暮らし、去年の今ごろから再び過ごすようになった。
生まれたときは公団住宅の4階建の4階、そしてここに移ってきて6階建ての6階で過ごした。ずっとそれが当たり前だと思ってきたのだが、結婚して安アパートの1階に入ってみるとこれがなかなか新鮮だった。目の前に自分のバイクや車がある。ちょこちょこといじることもできるし、ほんのわずかな時間に近所の店まで行ってみたり、あてもなく散歩してみたり・・・歩けるようになった子供が「脱走」したこともあった。
一年前からここに住んでいる。部屋の中にあれこれと手を入れて、広くなったりきれいになったりしたのはよかったが、そのかわり1階の気楽さが失われてしまった。エレベーターで一度6階まで上がってしまうと、よっぽどのことがない限り降りる気がしなくなる。私が最上階を当たり前と思ったように、子供たちは1階を当たり前と思っていて、今は毎日違和感を感じているのかもしれない。
子供の数も少なくなった。私が小学生のときは、私が住んでいる棟を3つに分けて登校班を編成し、集団登校していた。学校から帰ると大声で廊下を走り回り、公園や空き地で野球をやった。今では小学生の数が激減し、隣の棟と一緒になってやっと登校班がひとつできるだけらしい。廊下を走り回るなんてとんでもない話で、公園で普通に遊んでいるだけで「ブランコを強くこいでいるからやめさせなさい」などと苦情の電話がかかるらしい。
ただのコンクリートの箱なのに、その中にはそれぞれの家族の生活があり、思い出が詰まっている。なかなか離れられない・・・捨てきれない・・・と思っていた。ところがある日、生まれたときから住んでいた公団住宅が建て替え工事であとかたもなくなっているのを見て、強いショックを受けると同時に「ただそれだけ」の自分に気付いた。 ショックはショックだし、とてもさびしいのだが、ただそれだけ。命に別状はない。幼少のころの思い出は減るわけでも増えるわけでもなかった。
もうすぐ引越の日がやってくる。ここはもうすぐ他の人が住む家になる。さびしいけど、ただそれだけ。ようやく、思い出は思い出として片付けて、今の生活の方が大事だと思えるようになってきた。