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2008年02月09日

急に雪道

 土曜出勤。早めに帰るつもりがだんだんノッてきてしまい、気が付いたらけっこう遅い時間になっていた。職場は小雨程度だったが家の方では雪が降っているという情報もあった。

 いつものように高速道路を走ったがまったく雪の兆候はなく、家の最寄のバイパス出口まであっという間だった。下りながら分流し、直後に下りながらの180度ターンがあるというなかなかアグレッシブな出口である。左にウインカーを出して減速を始め、本線に別れを告げてそろそろアウトコースギリギリ・・・というところで急に積雪を発見。道の真ん中は何もないが路肩はかなり積もっている。とっさにややブレーキを強めて、アウトコースギリギリにならないよう修正してから左ターン。さっきまで本線の横には何もなかったので油断していた。危ないところだった。

 そういえばこのバイパスは走っているとコロコロ天気が変わることがある。クルマ通勤になってからはワイパーをオンにするだけだからあまり気にしなくなったが、バイク通勤時代はカッパを着るべきか否か、また他のルートを使えば雨を回避できるんじゃないかなどと考えながら走っていた。

 最寄り駅の近くまでくると積雪はいよいよ多くなり、坂道は思いっきり徐行しないといけないほどだった。1分前の道が大丈夫だからと言って今の道も大丈夫とは限らない。路面状況は刻々と、また場所によっても激しく変化する。最近は舗装道路の上ばかり走るのでそんな注意をする機会も減っているが、実は舗装とタイヤのグリップと良好な天候に助けられているだけですな。自然が一つ牙をむけば状況はエンデューロと全く同じだ。クラッシュしたときの自他のダメージや、レースと違い一方通行ではないことなどを考えると、街中の方が条件が厳しいと言えるだろうな。

2008年01月08日

ベストポリス賞

 日本で行われた初の本格的エンデューロレース「ITDE」(今はHTDEとなって受け継がれている)には「ベストポリス賞」(警察官ライダー)という賞があったらしい。他にも「ベストプレス賞」(新聞、雑誌社)とか「ベストフォーリナー賞」(日本国籍外)など、今のレースではあまり聞かれないような賞があったようだ(参考資料:ライダースクラブ1985-2 エイ(木へんに世)出版社)。

 この記事を読んだ当時、「面白い賞があるなあ」とか、「だったら『ベスト自衛官』とか『ベスト郵便局員』(中頓別のKさん、お元気だろうか)なんかも作ればいいじゃん」程度にしか思わなかったけど、今のこのご時世で思い返してみるといろいろと気付くことがある。

 当時はまだ浪人中だったり大学生だったりの頃で、まだバイクに乗り始めたばかりの、自分さえ楽しければよいと思っていた頃だった。まだまだバイクの人気が高かった時代だった。「レースなんだから速い奴が偉い」「職業が何だろうが順位はタイムで決めるのが一番公平」と考えるのが普通だろう。基本的には今でもそれは変わらないけど、「ベストポリス賞」や「ベストプレス賞」には、そういうタイムだけの世界とは別に、余裕とでもいうのだろうか、これからのオフロードシーンを盛り上げていくための遊び心のようなものがこめられていたように思うのだ。

 「ベストポリス賞」を受ける人はおそらく白バイ隊員である可能性が高いだろう。「○○部門で1位になった」という話しはどんなに些細なものでも後世まで残る。やがて白バイ隊員のトレーニングにエンデューロが取り入れられるようになったりするかもしれない。

 消防署にはトライアルバイクが配置され、他にもセローやTWなどが配置されている役所があるらしい。災害対策として素晴らしいことだと思うが、どこで練習しているのかと心配になる。広場に障害物を置いて乗り越えてみる・・・ぐらいしか出来ないのではないだろうか。

 関西の有名オフロードコースが閉鎖の危機に陥っているらしい。電車の駅の近くの場所で「自然破壊」が行われていることに憤りを感じている人がいるという噂を聞いたが、オフロードコースは自然破壊ではなく「自然と人間を守るためにある」とは言えないだろうか。世の中の人間すべてがオフロードライディングを知らなくなってしまうと、地球上すべてを舗装しなくてはならない。

 白バイ隊員と消防隊員と自衛隊員のオフロード競技会なんてどうだろう。速い遅いではなくオンタイム制にし、バイク(白バイ隊員はVF800P、消防隊員はTLR200、自衛隊員はKLXかな?)に合わせてタイムを設定する。メーカーの契約ライダーや一般の参加者も一緒に走ってもいいかもしれない。各都道府県から代表が出てきて、市町村長さんや議員さんが「わが○○市(町・村)のコースで腕を磨き、災害対策や日々の業務や交通安全に力を発揮してください」なんて挨拶するかもしれない。全国から集まった消防隊員や白バイ隊員、またその上司の署長さん達(ここ重要)と挨拶して名刺交換なんかもできるわけで。高校球児が「甲子園が目標ッス」と言うように、消防隊員が「○○○××大会での優勝が目標です」なんて言ったら効くだろうな。

 「そんなことできっこない」という意見がきっと出るだろう。実は私もそう思う。でも、これは親善野球大会とかサッカー大会ではなく、災害対策訓練の一環である。役所にすでに配備されている車両の運用技術の向上に役立つことである。これを否定するなら、そもそもそういう車両を配備する(税金を使う)のが間違っているということにならないだろうか。ヘリコプターを買ったらパイロットを養成しなくてはならないのと同様、オフロードビークルは日々訓練しないと上手く乗りこなせないのだ。なんとか乗る位なら年1回位でいいけど、仕事で他人を助けるために乗るなら最低でも月2回、出来れば週1回は乗らないと。

 そして本当にこんな大会(運動会でもいい)が年に一回でも実現できれば、オフロードライディングは「自然破壊ごっこ」ではないことが分かってもらえるのではないだろうか。人間に必要なものとして、文化として根付くきっかけになるのではないだろうか。

2008年01月04日

電気ブラン

 近所の安売りスーパーに買い物に行ったら電気ブランを売っていたので買ってきた。で、鍋の後で飲む。

 1990年の日高エンデューロの後、北海道から無人車で送られてきた250E-GSをフェリー乗り場に取りに行った。その後で大森のエンデューロショップにお礼(行きのフェリー積み込みの際に色々とお世話になった・・・)を言いに行ったらちょうどその日に打ち上げをやるとのことでお誘いをいただいた。その時の会場が神谷バーで、そこで初めて電気ブランを知った。

 薬草みたいな味がするなあと思っていたが、調べてみると本当に薬草が入っているそうだ。飲んだ瞬間にあの頃・あの時のことを思い出した。

 楽しく酔っ払い、社長のウェストバッグを腰につけて「4分間あります」とモノマネをしていたMさん、元気だろうか。

2007年10月30日

オフロード

 オフロードコースの閉鎖が相次いでいるようだ。たぶん自然保護とか騒音問題とか、そういったことが原因なのだろう。閉鎖→新しいところに集まる→問題が大きくなる→閉鎖・・・の繰り返しとなってしまうのだろうか。

 都会で便利に日々暮らしていると、オフロードっていうのはわざわざ金を出して遊びに行く、普段はまったく縁のない所というように感じてしまう。今時はほとんどの道路が舗装されているし、もうオフロードビークルなんて流行らないし、必要のないもの・・・という気もする。だが、実はオフロードっていうのはごく身近にたくさんあるし、目の前の道路がある日突然悪路になってしまう可能性もある。

 コンクリートやアスファルトの上でしか遊んだことがない子供たちが、雨上がりの公園ですぐに転んだり、木の根に足を取られてひっくりかえったりなんてのをたまに見かける(ワシもどっちかというと転ぶ方だけど)が、同じようなことがクルマやバイクでも起きるんじゃないかな。

 人間は道具を使い、生身では生きてはいけない場所を通ったり、生身では無理なスピードで移動する。他の動物にはない特徴の一つだろう。国やお役所が舗装してくれた場所が増えてくると、かつてのように練習して技能を磨く必要がなくなってくる。それはそれで正しい進化なのだろうけど、別角度から見れば退化に違いない。

 道路に15cm程度の段差があちこち出来たらどうするのか。たとえ公用車の半分が四輪駆動車だったとしても、緊急時の能力は半分以下になってしまうだろう。パトカーも白バイも大半が走れなくなる。白バイなんか半分ぐらいはアフリカツインあたりにしたらどうだろう。

 歩いて2時間以上かかる山道、段差や沼地があって普通の人がバイクで走ろうとするとすぐに転んだり埋まってしまう山道を、エンデューロライダーはエンデューロバイクを操って十数分程度で移動できる。この能力は飛行機で空を飛んだり船で太平洋を横断する能力と同じく、次の世代に受け継いでいかなければならないことだ。不要に感じるのは都会ボケかもしれない。

 エンジンの騒音が問題ならもっと静かなエンジンやマフラーを作って欲しいし、それでも駄目ならモーターを使ってでもいい。周りに住民がいなくて問題になりにくそうな東京湾の埋め立て地にコースを作ってもらうなんてのもいいかもしれない(東京都はオリンピック誘致案でMTBのコースを東京湾の埋め立て地に設定している)。教習所で全員オフロードやれとまでは思わないが、興味を持った人が乗ってみることの出来る場所は各地に欲しい。

2007年10月29日

リライアビリティ

 今年のISDEに、鈴木健二選手がWR250Rで出場すると聞いてびっくりした。

 ISDEというのは日本語に訳すと「国際6日間耐久オートバイレース」で、サッカーのワールドカップのように国別対抗戦の形式となっている。年に一度開催され、今年は第82回らしい。団体競技なのだが日本からは長い間一人しか参加していなかった。昨年はじめて日本からもトロフィーチームが出場し、今年はいよいよ日本初の金メダル獲得かと期待が高まっていた。鈴木選手は日本人で一番金メダルに近い選手として期待されていた。

 去年はたしかWR250Fをベースに、セルスターターを外してまで軽量化して出場していたはずだ。それがなぜ・・・というのが最初の印象だった。そういえばセローが登場したときも羽鳥のレースで1,2フィニッシュなんて記事を読んだなあとか、第一回ITDEでもXT250Tが凄く速かったらしいとか、TT-Rが登場した直後のスキー場のレースでは有名人が皆TT-Rに乗っていたことなどを思い出した。

 いきなりトロフィーチームじゃなくてクラブチームでやった方が良かったんじゃないかとも思うが、でも考えてみれば、ISDEはライダーのテクニックだけじゃなくてマシンのリライアビリティ(信頼性)も問われる競技だ。完走は当たり前、銀メダルでも「ほら、250Fにしておけばよかったのに」と言われてしまう状況を分かった上での選択だから、マシンにも相当の自信があるのだろう、と思っている。

 ワシとしてはWR250Rにはとても期待している(ISDEへの参戦は正直予想外だったが)。オフロードバイクを取り巻く環境は厳しくなる一方だが、WR250Rはそのうちのいくつかをクリア出来る可能性を持っている。あとは人間次第だなと思う。

2007年09月09日

ららぽーと

 軽めに朝食を食べてから、ららぽーとに出撃。二手に分かれ店内をブラブラ。特に何を買うという訳ではないが、適度に散歩し適度にストレス解消。フードコートの混雑を横目で見てびっくりし、マザー牧場でアイスを食べ、ワシはスタバでコーヒーを飲んで家に戻る。一日を長く使えるし、午前中の店内は空いているし、美味しいコーヒーを飲んでシャキッとするしでなかなか気分がよろしい。

 午後からは第一子は塾へ。ワシは久しぶりにYZ80を引っ張り出して洗車と整備。久しぶりにタンクとシートも外して洗い、キャブも開けてみた。売りに出しても恥ずかしくないセンまで持っていこう・・・と思ってやっていたが、キレイになって調子の戻ったバイクを見ているとまた出かけたくなりますな。

2007年08月02日

ontime

 夕張EDの結果や経過をあちこちのサイトで見たり、現地にいた人から直接話を聞いたりした。天候のせいだけじゃなくタイムがきつかったこともあってかなり混乱したようだ。

 私がISDEを知ったのが1980年代の中ごろだった。その後間もなくしてISDEを範にしたレースを日本でも開催したと知り、いつか出たいなと思った。それが第一回のITDE(後のHTDE)だった。1989年に初めて出場し、その興奮からKTMに乗りたいとますます思い始め、当時の輸入元が開いていたショップをちょくちょく訪れるようになった。1989年型の中古車を買ったのは1990年の春だったと思う。その頃から「オンタイム」という言葉はそのショップの中ではたまに聞いていた。ヨーイドンで朝から晩まで8時間のサバイバルレース、過酷過ぎるコースと完走率の低さを競い合うような設定についてたびたび語られていた。当時ISDEを走った日本人は一人だけで、そのショップはその人が経営していた。その人自身からは「ISDEはもっと複雑なルールだけど、日本じゃ無理」というような話しを聞いた覚えしかないが、マネージャー(店長)のNさんやセールスメカニックのYさん(二人ともISDEのサポートや撮影の経験があり、またYさんはITDEやHTDEでの入賞経験を多数持つライダーだった)からは何度かオンタイムの話しを聞いた。ただ、「そうなると競技性をどう高めていくかが問題だ」という話しだった。

 1990年だったか1991年だったかのHTDEを走っていたとき、森を抜け出て見晴らしのいい風景に出てきたら係員から停止を求められ「稲に泥かけないように走って」と言われた。そこから先はしばらく田んぼの横を通るルートだった。で、「はい」と返事しそれなりに徐行していたら後続のライダーにぶち抜かれたことがある。もしこれがオンタイム制のレースだったらここの区間はテストではなく移動区間となるだろうな・・・タイムは余裕たっぷりにして30km/h制限でもかければいいのかな、と後で思った。公道上を走ったり横切ったりするときも同じだろう。スピードガンで全車の速度を測り、10km/h以上オーバーは失格にするなんてルールも、バイクに理解の無い人を巻き込んでイベントを成立させるには必要なのかもしれない(個人的には嫌だけど)。

 朝から晩まで全部がクロスカントリーテストのような当時の状況ではいろんな場面で不公平になったり危険だったりする。私は残念ながらオンタイム制のレースは走ったことがないが、自分なりの経験からこの程度の想像はしていた。オンタイム制の本質からは少々離れるのかもしれないけれど。

 HTDEがオンタイム制に移行したのは1993年からだったと思う。前年までのサバイバルレース形式が懐かしくて減点覚悟(無視)で全部を全開で走った人もいたという。パソコン通信でも「去年までは最高だった」なんて意見を見たりしたな。今回も混乱はしたようだが、あれからもう14年も経っている。運営側にもライダー側にも周囲にも詳しい人がたくさんいて、バランスが取れた上での混乱なんだろうな。だからきっと来年はより良い方向でレースが開催されるだろう。

2007年06月07日

引退ではない

 エンデューロライダーI君と会ってしばしお話し。今年は全日本に出る予定なしとのことで、「引退するの?」と聞いてみたら、アマチュアなんだから引退もなにもない・・・というような返事だった。

 彼には物凄く強い信念のようなものがある(と私は思っている)。あの時代にイタリアの名門チームに単身で行って武者修行をしたり、普通の人ならまずやらないようなことを彼はやってきた。ワシのような部外者から見ればワークスライダーのように見えることもあるが、彼は自分を見失わずに自分のやれる範囲でエンデューロを続けているのだろう。無理にスポンサーを集めたりなんてこともしないし、自分の仕事はきちんとこなしている。全日本には出ないそうだが、相変わらす毎週走っているそうだ。引退とかそんな大げさなことではなく、今年は出ない・・・それだけなのかもしれない。

2007年03月11日

2時間だけ遊ぶ

 土日にまとまった時間を取る事が難しくなってきているので、2,3時間程度で軽く楽しめる趣味にシフトしているところだ。本当はオフロードバイクに乗ってあちこち走りたい。旅もしたい。でもワシがしたいそういうことは2時間ちょっとでは無理だからな。今ワシに出来ることは、再び時間が取れるようになったときにすぐにまた乗れるよう準備しておくぐらいだろう。

 2時間程度で遊べるっていう見方で考えると、ハーレーに乗ってコーヒー飲みに行くなんてのがとても楽しそうで素敵に思える。今までオフロードが好きか嫌いかとか走破性だとか走り応えといった観点ばかり考えてきたけど、育児や家族生活の隙間でちょっとだけ自分の時間を楽しむにはオフロードはちょっと負担が大きすぎる。自転車でもダウンヒルが下火になり、MTBも下火になり、ロードが多くなってきているのはこういう理由もあるんじゃないかな。2時間ではスポーツを楽しむどころか、フィールドにたどり着くことすら無理そうだしな。

2006年10月08日

1980年代のKTM広告

 ひそかにコレクションしていた、トシ・ニシヤマの広告の一部を公開。カタログデータ集をアップしたときは画像やデータの無断使用が多く、残念な気分になることが多かった。なので今回は画像に当サイトのロゴを入れさせてもらった。

 トシ・ニシヤマの雑誌広告が気になりだしたのは1984年頃からだ。当時仲が良かった友人とは写真や旅行やオートバイなど、いろんなことで行動を共にしていた。そんな彼が読んでいた本の中に、丸山健二氏の「私だけの安曇野」があった。やがて丸山健二氏がKTMに乗っていることを知り、そのつながりでトシ・ニシヤマ氏のことを知った。「メッセージ」とか「爆走、オデッセイ」とか「さらば、山のカモメよ」などで、トシ・ニシヤマ氏のことをたびたび読んだ。

 当時は弟と二人でバイク雑誌を手分けして買い、読んでいた。たしかライディングスポーツ誌が創刊間もない頃だったと思う。まだオフロード雑誌はなく、ロードレースが大部分でたまにモトクロスとトライアルの記事が載る程度。そんな中でハイパワーの大排気量オフロードバイクが静かに写っているだけの広告は、独特の存在感を漂わせていた。一見ただの外車専門店のようだが、しかし丸山健二氏の著作のおかげでどういうレースを走るバイクかは知っているつもりだった。当初は外国製オフロードバイク専門店だったが、やがてKTM中心の雰囲気を強くしていった。毎年外国で開催されるオフロードのオリンピック「ISDE」(国際6日間耐久レース)や、それを目指して苫小牧で開催された日本初の本格的エンデューロ「ITDE」(国際2日間耐久レース)、また南米ペルーで行われたインカラリーなどの記事は雑誌には載らなかったり、または載ったとしてもほんのわずかで、トシ・ニシヤマの広告の中の写真や文字は貴重な情報源だった。後にガルル誌やバックオフ誌が創刊され買うようになったが、表紙の次に見るのは特集記事ではなくトシ・ニシヤマの広告だった。

 自分用として保存しておいたものなので保存状態は良くないし、中には破りとったようなページもあるが、今こうして並べてみると自分用としてだけ保存しておくのはあまりにもったいないと思い、公開することにした。トシ・ニシヤマ氏には連絡を取り承諾をいただいた。「いろいろ好きに作っていたから、今見ると面白いかもしれないね」とのことだ。

 最近のKTMのコピーに「君の手で確かめてくれ」というのがあった。その20年以上前、トシ・ニシヤマは自分の手で"6日間"確かめて、日本のライダーに紹介していた。

1980年代のKTM広告コレクション

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