2006年7月20日

月刊ASCII

 月刊ASCIIが総合コンピューター雑誌からビジネス雑誌に模様替えをするとのニュースに接し、あわてて「最終号」を買ってきた。前の職場でコンピューターに興味が出始めた頃、直属の上司がたまたま全体のコンピューター責任者で、ASCIIを持っていたのを見たのが始まり。転職して自分でも買うようになり、一時は出社前に開いている本屋を探して購入するぐらいハマっていた。Windows3.1前夜あたりだったかな。特にロードテストはなんども繰り返し読んでいた。

 やがてDOS/VマガジンとかSuper ASCIIとかも買い出してだんだん月刊ASCIIは「いくつかのうちの1つ」になり(ASCII DOS/V ISSUEなんてのもあったな)、そのうちPC雑誌そのものをほとんど買わなくなった。ここ2,3年は出張の時に暇つぶしと情報収集を兼ねて週刊アスキーを買うぐらい。最近はそれすらしなくなってきた。

 PCそのものがもうすっかり当たり前になってしまったし、私の場合は仕事でPCをセットアップすることが楽しみではなくてただの労働になって久しい。CPUはあれでマザーはこれでビデオはそれで・・・なんて考えていたのはずいぶん昔の話で、今は懇意にしている中古業者さんに「中古の安いのを○台」というだけ。一番安いPCでも十分使えるから、スペックをあれこれ選ぶ必要なんかもうないのだ。あとは経験的に知っている壊れやすいメーカーとか壊れやすそうな筐体などを気をつけるぐらい。

 ビジネス雑誌になると聞いて、思い出したのは「哲学者クロサキのMS-DOSは思考の道具だ」という連載のことだ。当時、一般の企業(特に中小)ではコンピューターはせいぜい伝票発行が出来る程度で、ようやくワープロとしての使用が始まったころだった。まだワープロ専用機の方が印字が綺麗だったころで、印刷がきれいならそっちの勝ちというような雰囲気もまだ残っていた。でもこの連載のおかげで、PCワープロやエディタで打ったテキストファイルをハードディスクに保存しておくことで革命が起きるということを知った(うすうす気付いていたが、「やはりそうだったのか」と思った)。当時のASCII誌にはたしか哲学雑誌の編集長をやめて移って来た編集者もいた。それぐらいPCへの期待感があった頃だった。486が安くなって通販カタログみたいになってしまったりもしたが、それでも読めばかならず「じわっ」と染み込むようなページもあったように覚えている。

 クロックがどうのこうの、チップがどうのこうのということがごく一部のPCマニアだけにしか必要がなく、実際のビジネスや生活シーンでは最低スペックのPCでもおつりが来るような現在、PC雑誌を卒業するというのは寂しくもある(ここ数年買ってもいないのに勝手な言い方だが)・・・が、正しいことのようにも思う。「MS-DOSは思考の道具だ」のようなわくわくする連載をまた読める日が来るのだろうか。期待して待ちたいと思う。

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